小川 がくの生い立ち

【出生】

小川 がくは、1963年2月23日午前8時19分 本町1丁目1740番地で出生しました。

生まれた時の体重は、3400g 普通より少し大きめでしょうか。

当時の実家は、木造平屋であり、南向きには小さな庭もありました。

家の場所は、今の実家と同じ位置にありましたが、本町通りから路地を入った3軒目でした。その路地は今でさえアスファルトに舗装されていますが、当時は地面がむき出しでした。ですので、雨が降ると家の前は水溜まりがいくつかできるような環境でした。

【幼稚園】

いまでこそ、2年保育、3年保育は当然かもしれませんが、当時は1年保育が多い中で、私は5歳の時から私立幼稚園に通いました。ただ、実家から私立幼稚園は非常に遠く、母親の運転する自転車で30分くらいかかっていたと思います。
よって、1年間は遠距離自転車通園をしていました。毎日の送り迎えをしてくれた母親には感謝しかありません。
その後、家から徒歩7分くらいの所にインマヌエル教会があり、その教会内で幼稚園がありましたので、6歳からはインマヌエル教会幼稚園に通園しました。この幼稚園はキリスト教の関係かもしれませんが、私は全くの無宗教です。

【小学校時代】

私の住んでいた所が本町ということもあり、小学校は地区内小学校へ通いました。

私は2月生まれの早生まれなので、同じ学年と謂えども4月生まれの同学年と比較すると1年近くのハンディキャップがあると感じました。背はいつも一番前から2番目であり学校の勉強もよく出来ませんでした。学校での楽しみといえば学校給食しかなくて、午前中の授業中に私がいつも考えていることは早く給食時間にならないかなぁ、と時計ばかり見ている子どもでした。そういう子どもだったので成績は当然良くはなく、小学2年の時の成績表は、体育と図工は平均以上ですが、国語・算数・理科・社会は平均以下でした。

小学6年の時の夏休みには、学校の夏休み公開プールに一日も休まずに毎日通い、夏休みが終わった頃にはクロール、平泳ぎ、背泳ぎとも50m以上泳げるようになりました。

また、小さいながらも駆け足は早かったので、運動会の短距離走ではいつも1位、2位をとっていました。

【中学校時代】

私の住んでいた学区内の中学校に通いました。

中学生になっても、背が低かったのは相変わらずでクラス内でも一番前から2番目であり、また駆け足が早かったのはそのままでした。中学校ではいづれかのクラブ活動に入ることが強要されており、迷った挙句に入ったのが柔道部。柔道部では月曜日から土曜日まで授業後に毎日練習をさせられ、厳しいながらも何とか耐えて練習についていく事ができました。中学3年の中学最後の夏の柔道地区大会では、私は個人戦に出場することになりました。ただ、私は当時まだ小さい方(身長150cm,体重45kg)で、中学生では体重別階級という概念はなく、すべて同じ階級で試合するのです。その点、体の小さい私は試合ではいつも不利な状態でした。個人戦の一回戦では相手チームは体重が100kgを越え身長も私より1.5倍位の巨漢でした。試合時間内では私の一方的な攻勢に終始し、かつ背負投げで相手を2回倒し有効を取りました。結果、私の初勝利で一回戦は終わりました。ただ、残念ながら二回戦では抑え込まれて敗退しました。この時思ったのは、小さい私でも練習をすれば、大きな相手を倒すことができるという事でした。

この時期に起きた大きな事件は、田中角栄現総理大臣がロッキード事件が逮捕されたことでした。中学生の私が思ったことは日本の首相が逮捕されるということであれば、いったい誰を信じたらいいのかということでした。学校の社会科では、立法、行政、司法は三権分立でそれぞれの権限は均衡が図られている、と習っていましたが、そのトップが逮捕されるというのは中学生の私には非常にショックでした。そこで、私は法律で国を治める法治国家として重要な地位を占める司法の仕事に就こうと決めました。その司法の仕事の中でも、判決を出す裁判官の仕事に一番惹かれました。

【高校時代】

県立高校受験では、薬園台高校を選択しました。クラブ活動は、たまたまのきっかけで弓道部に入りました。
私が高校1年の冬に、共通一次試験が行なわれました。その制度は、国公立大学を受験するにはまず5教科7科目の共通一次試験を受験しなくてはなりません。よって、国公立大を受けるのであれば、広く浅くの学習が必要になります。
高校では進学する際に、文系か理系かを選択することになります。自分の好きな科目は、数学、物理、化学だったので通常であれば理系に進むのでしょうが、進路を考えると私の志望は法学部に入って司法試験を目指す事にあったわけですので文系のカリキュラムを選択しました。
この頃、私は独立心が非常が強く、高校を卒業したら家を出て自活していきたいと強く思っていました。

【大学時代】

大学は司法試験合格で有名な中央大学法学部を選びました。

なので、大学入学の頃から、日本で一番難しい試験と言われる司法試験を目指していました。

また、実家から離れ自活をしていたので、学校の授業前に新聞配達を終えてから学校へ通う生活であり、正に厳しい生活を送っておりました。毎朝AM3:30に起きてすぐに新聞販売店に向かいます。販売店に着いたら折込チラシを今朝届いた朝刊に差し込みます。私が担当した区域は本紙が350部でした。その350部に織り込みチラシを入れ終わったら、新聞をバイクに積んで配達をし始めます。配達時間は約2時間半なので、AM6:30には配達し終えます。何もトラブルがなければいいのですが、長くやっているといろいろな事があります。雨が降れば新聞が濡れない様に気をつけなければならないし、バイクもタイヤが古いのでよくパンクをしました。特に、雨の日にパンクをする事が多く非常に苦労をしました。

つらいのは、冬の寒い時期に朝早く起きると夜空は星が凍て付くような輝きで顔を突き刺すような寒さに絶えなければならないし、夏の暑い日に汗を噴き出しながらマンションの階段を上がったり下がったりしなければならないのは、とてもつらかったです。

【会社員時代】

当時はまだ民間企業同士の就職活動協定があり、8月20日前には、企業説明会や面接に伺うことは禁止されておりました。私は法学部出身であり将来は法律関係の仕事に就く予定でいましたので、就職協定も真面目に遵守しておりました。が、就職協定を守っていたのは私くらいなもので、大学の級友はそれ以前に企業関係者と連絡を取り合い就職協定を無視して既に内定を取っている方がほとんどでした。それでも、私は就職協定を遵守しました。

その後、待ちに待った企業説明会解禁日の8/20になってから、私は会社訪問を始めましたが、行く会社行く会社どこの会社も募集定員の9割近くは内定を出しており、今更会社訪問を始めた所で正面から対応して頂けた会社はもうほとんどありませんでした。この時、私は世の中の矛盾を感じ、表と裏のある社会に対して非常にショックを受けたことを今でも鮮明に記憶しています。今思えば、私自身が純粋な気持ちのままで協定と言えども違法な事は許さないというポリシーがあったのだと思います。

そのような状況下でも日本IBM(株)からは私の出遅れた就職活動にも関わらず、内定枠がほとんど埋まってしまった後の非常に高い競争率の中から入社試験の結果によって内定を頂けました。

ただ、私の将来の夢は、裁判官か弁護士になって社会的弱者を救済することが自分の理想の人生目標でしたので、大学卒業後に日本IBM(株)に入社するかどうかは、会社の入社日まで悩んでおりました。

1989年4月1日、ホテルニューオータニで行われた日本IBM(株)の入社式には取り敢えず出向いたことから、私の日本IBM(株)システムエンジニア会社員生活は始まりました。

 

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